リクルートエージェントができる前の、まだまだ転職が一般化していない1998年に、社会人になったばかりなのに10ヶ月で転職した話

2019/07/13

当時25歳。右も左も分からないピヨピヨの社会人

転職を考えている男性会社員のイラスト

1998年春、地方国立の新潟大学を卒業した私は、大日本印刷株式会社に就職しました。

世の中は、これまでのFAXと電話から、パソコンとメールアドレスを持って仕事をするようになりはじめたばかりという時代。

市ヶ谷の駅前にある釣り堀を横目に、寮と会社を往復する毎日が始まりました。

最初の1ヶ月間、名刺の渡し方や電話の受け答えなどの全体研修があり、その後、希望した各部門へ配属されるというスケジュールで5月を迎えました。

普通であれば、「ようし、これからバリバリ働くぞ!」というところだったのですが。

・何を言っているのかよくわからない上司
・そこから、謎に飲みに連れて行かれてさらによくわからない話を聞かされたり
・意味不明なお使いを毎日のように頼まれたり
・分煙されてない職場だったり(最初信じられませんでした。最近はもうないと思いますが)

当時は、これが社会、これが会社だったのかもしれませんが、いわゆる大企業体質に馴染めず、絵に描いたような5月病という名の病を抱えながら日々、不安な毎日を送っていました。

まだ社会に出て1年目なので、身よりもなければ貯金もなく、会社に来ていくスーツも2着だけ。ネクタイも多分数本でした。

寮生活なので、今ここで会社を辞めたら家すらなくなる家なき子。同情するなら金をくれ。

かといって、実家の山梨県に戻ったところで親に合わせる顔もありません。

当時のMYホームページのプロフ画像。闇がMAX

そんなときに頭をよぎった単語は「転職」でした。

転職がまだまだ一般的ではなかった時代

当時の転職活動というものは、20年経った今からすると信じられないくらいマイナーなもので、どれくらいマイナーかといえば、「話題にするのが恥ずかしいほど(!)」でした。

それもそのはず、人材紹介業というものが解禁になったのが1997年。それ以前には、そもそも、人材紹介エージェントというビジネス自体が存在していなかったのです。

まさに、プロパー(新卒)で入って、定年まで勤め上げるのが何よりも美徳な時代!

終身雇用バンザイ!

「ドラクエ3 転職」の画像検索結果
「転職」といえば、ドラクエIIIのダーマの神殿が脳裏をよぎりました

今でこそ都心部では、転職メディアや転職サービスの交通広告を目にしない日はないほどになりましたが、1998年の環境はインターネットがそもそも普及しておらず、主流はアナログ接続からやっとISDN(64kbps!)にシフトし始めたほど。

リクナビNEXTやenジャパン、DODAなども知らなければ、当然、Wantedlyもビズリーチもありません。

じゃあ、どこから転職先の情報を得るの?

そもそもスマホもなければ、i-mode(ガラケー)もなかったので、PHSのショートメールくらいでは、ネットから何か情報を得るのは難しく、その結果、ネット経由ではなく、コンビニで売っている求人誌か、新聞広告(※もちろん新聞なんて取ってない)から探すしかありませんでした。

確か、キャリアデザインセンターが発行していた「type」という求人誌がコンビニで売っていたのを買って帰り、寮のベッドの上で読み込みました。
その中にいくつか興味の湧いた会社があったので、これまた昼休みにコンビニで買った履歴書を書いて郵送(!!)しました。

切手代やら履歴書やらエントリーのたびにかかるのは、限られた初任給から出すのは地味に精神も削られました。(当時の初任給は確か、手取りで17万円/月ほどでした)

履歴書のイラスト(記入済み・斜め)

しばらくすると、いわゆるお祈りメールならぬ、お祈り『手紙 』 が寮のポストに届きました。
それも忘れた頃に・・・

そうですよね、社会人1年目でまだ何も実績がないのに、中途で採用してくれるわけがないのです。

「石の上にも3年」なんて信じない

今のわたしの職業(管理系)からはやや想像もできないかもしれませんが、当時は、学生時代にCGアニメを作ってコンテストで入選したこともあり、3DCGクリエイターを目指していました。

でも、CG系なのに、ネット上に募集情報はないので、「 DigitalBeing (ググっても出てこない・・・これもCDCだったのかな) 」など、パソコンやCG系の雑誌を買って、CGデザイナーの募集を探していました。

Lightwave3DというツールでCGを作ってました

とにかくあちこちにメールで連絡を入れて、学生時代に作ったCGアニメのビデオテープ(当時は、まだDVDが出る前だったので、VHS!)を送付して、面接までこぎつけたこともありましたが、中途採用面接経験が0だったせいか、作品が拙かったせいか、結果、どこも1次面接でNGに・・・

VHSビデオテープのイラスト
VHS。複製に実時間必要だし、送料もつらみ

やっぱりなんの実績もないのに、1年目から転職なんて無謀なのか・・・」、と3畳ほどしかない監獄のような寮の部屋で一人涙ぐんで何度も考え直そうとしました。

この頃が一番堪えていて、心が折れていた頃でした。

でも、、、やっぱり、「やりたくない仕事を続けているまま死ぬなんて嫌だ」という思いが勝ち、もう一度、転職活動を復活させました。

使えるものはなんでも使おうと、大学時代のつてにも片っ端から連絡して悩みを打ち明けまくりました。

やはり、どれだけ辛くても自分が成長できると思える環境を選ぶことが今振り返っても大事と思います。

リクルートエージェントの前身、リクルートABLICと出会う

まだ、Googleがこんなにも世界を席巻する前の時代のお話。情報は「Yahoo!」か「goo」か「infoseek」などで検索していました。

そんなある日「転職お手伝いコンサルタント」という聞き覚えのないサービスのバナー広告を発見しました。

「これはなんだろうか、、、何かぼったくりの結婚サービスみたいなものじゃなかろうか。東京は怖いところだしな・・・気をつけないと」

山梨に18年、新潟に6年しか経験がなかった田舎者だったわたし。何かを失うのは怖い・・・・

でも、ちょっと待てよ、、、これ以上失うものがあるだろうか?

もはや、なりふりなんてかまっていられなかったので、即効でエントリーしてみたところ、数日後、自分のPHSに電話(!)がかかってきて、週末に、霞が関のビルまで来てほしいとのこと。

携帯電話のイラスト(ガラパゴス携帯)
まだ2つ折りの携帯がない時代

これが人材紹介サービスというビジネスだと知るのはもう少しあとのことです。

東京に出てきて間もないので、「新宿」「市ヶ谷」「秋葉原」くらいしか行ったこと無く、霞が関の場所をまず調べてから、いそいそとでかけていくと、Fさんというエージェントの方に対応されました。

簡単に経歴を書いてその場で証明写真まで撮ってくれて、だんだん不安になってきました。

証明写真のイラスト(男性)

「あ、あのぅ、これ、本当にお金かからないんですか??」

今でこそ、転職者(候補者)がお金を払うのはビズリーチくらいですが、一般的には採用する企業側がお金を払うというビジネスモデルであることを、社会人1年目の小林(25)は知りませんでした。

確かその時は現状の職場についての不満をつらつらと述べたと思うのですが、Fさんは真摯に聞いてくださり、その場で、いくつか、ネット系の企業を5社ほど紹介されました。

こんなに募集中の企業があることに驚いていると、「こんな会社も募集があるんですが、興味がありますか?」と提案されたのが、ベネッセでした。

募集職種は「マルチメディア技術者」

まだ、CD-ROMやらインターネットが珍しい時代だったので、こういう名前の募集になっていました(すっかり聞かなくなりましたね、マルチメディア)

この頃、まだベネッセになったばかりで、それまでは「福武書店」という会社名でした。

自分も高校生の頃、半年だけ「進研ゼミ」を受講していて、そのイメージしかなかったので、理系だったこともあり入りたい会社の候補に上がったことはなかったのですが、とにかく1社でも多く応募しておこうと思い、深く考えずにエントリーしました。(今思えば、会社規模も、社長名も、事業内容もよくわかっておらず、命知らずでした笑)

一通り手続きが終わり、 キツネにつままれたような気持ちで、この日は帰路につきました。

(まさか、この人生のターニングポイントとなった霞が関訪問の何年かあとに、自分が人事として人を採用する企業側の仕事をすることになるなんて夢にも思わなかったですが苦笑)

SPI、面接、面接、そして最終面接

ベネッセは本社が岡山なのですが、東京支社が多摩センターというところにあります。

市ヶ谷からは都営新宿線で新宿、そこからは京王線~京王相模原線で向かいます。途中、山奥っぽいところを通るため、「東京にもいろいろなところがあるのだなあ、でも空気が良いから住んでもいいかなあ」と思ったのを覚えています。

一発目は週末に実施された会社説明会とSPIでした。その時に一番驚いたのが自分以外の受験者がほとんど女性だったこと。でも、そんなことよりも、とにかく試験を通過したかったので、60分間で40問。必死に問題に取り組みました。

結果、あんまりできなかったので「あ~、ここまでか~」と落胆しつつ、寮まで帰ったのですが、Fさんから「次に進んだのでがんばってください」と連絡が入りました。

1対1の面接のイラスト(男性)

次の面接からは平日だったため、お昼休みに会社を抜け出してなんとか、現場面接、役員面接と進みました。お昼休みがないので、カロリーメイトをかじりながら乗った京王線も今となってはいい思い出です。

面接では、あまり自分を飾ること無く、思ったままのことをぶつけた面接だったので、「これでだめならしょうがない」という記憶しかないのですが、逆にそこを評価されたようでした。

最終面接は社長(当時、福武總一郎さん)と、急遽、岡山本社で朝10時から実施に。

岡山本社での社長面接は5分で終了

さすがに岡山まで昼休みに抜け出してはいけないので、挙動不審な有給を取得し、朝一番の新幹線で岡山に向かいました。

西は、大学生の頃、青春18切符で広島までいったことはありましたが、普段は、大阪くらいまでだったので、いろいろな意味で緊張した片道3時間を超える長旅でした。

新幹線のイラスト(のぞみ)

当時のFさんとのメールのやりとりが残っていました

社長との面接だからと言って気負いをせずキチンと目をみて「明るく元気にさわやかに」を呪文のようにして頑張ってきて下さい。

いつもポジティブに応援してくださったFさん。ずいぶんしてからFacebookで再会したときは嬉しかったです。Fさんは、エージェントの鑑です。

社長のイラスト(若い男性)

いよいよ、緊張MAXの中、社長室の前に通されて、待つこと数分。他にも中途面接で来ていた候補者がいました。

いよいよ自分の順番がきて、部屋に通されると、ズバズバと難しい無理難題が飛んでくるかと思いきや、地元の山梨の話とか、あまり想定していなかったことを聞かれて、あっという間に終わりました。

「山梨といえば、ワインだよね?」、とかそんな感じだったのですが、反応から人柄を見ていたのかもしれません。

拍子抜けとはこのことだなあ、と。だって、7時間かけて、5分ですから(苦笑)

せっかく有給をとったのだから、ゆっくり岡山観光でもしてくればよかったのですが、いっぱいいっぱいだったのでしょう、そのまま真っすぐ東京砂漠へ戻ってまいりました。

内々定、内定、退職、そして・・・

最終面接後、翌日くらいに内々定の連絡があって、わたしの転職活動は幕を下ろしました(正確にはその後の指定の健康診断があり、それを通れば、という条件付き。無事通りましたが)

転職が確定してから、現職の上長へ連絡し、一定の引き止めもあったものの、特に送別会らしいものもなく、退職届が受理されて、晴れて転職できました。

辞めるまでは、「自分が辞めたら何かまずいのでは?会社が困ったことになるのでは?」と思い悩むことも多いと思いますが、よほど小さい会社でなければ、ほとんどのケースでは自分ひとりいなくなったところで会社はこれまでと同じように回っていくのです。

目標を達成した人のイラスト(男性)

こうして改めて振り返ってみると、近年ほどの、転職ノウハウもネット上になければ、採用手段も少ない状況でしたが、それでも自分が理想と思える仕事へ転職できたのは、1つだけ言えることは、あきらめないでやりきること、それにつきるのかな、と思います。

自分の人生は自分で決める。親に相談もしませんでしたが、余計な心配をかけるのも野暮というものです。

今、転職に悩んでいる人の助けに少しでもなれば、と恥ずかしさもありつつ、21年前の今日に思いを馳せながら、筆を執りました。

そして、今、思い返すと、DNPに問題があったというよりは、大企業<>自分、という部分にミスマッチがあったことが本質的な課題であり、それを解決していける「リファラル採用」というビジネスに今従事できていることを大変ありがたく思うのでした。

おしまい